インターネット特別展示室  (3)

この展示室は、徳島文理大学人間生活学部メディアデザイン学科と
徳島県立文書館の連携により共同制作したものです。

(県立文書館の
 特別企画展 「庚午事変の群像」はこちらです。(PDF版図録
 第32回資料紹介展 「人物写真に見る徳島の近代」はこちらです。)


庚午事変に至る人々の動き(Flashアニメーション)

※ 上の画像をクリックすれば、Flashアニメーションが表示されます。


庚午事変とは

 庚午事変(稲田騒動)は、明治3年5月13日、過激な徳島藩兵隊の一部が徳島藩家老稲田家の家臣を討伐する目的で起こしてしまった殺傷事件です。稲田家が根拠地としていた淡路国洲本では、街が焼かれ、自殺者2、即死者15をはじめ多数の死傷者を出しました。徳島藩兵隊側は責任者として切腹者10ほか多数のものが処罰を受け、徳島の近代を大きく変えたとも言われる事件となりました。稲田家家臣も、その後明治政府によって北海道移住を定められ、移住船沈没事件が起きるなど多くの悲劇を生んだのです。

 維新期にいち早く尊王倒幕派として活躍していた稲田家家臣には、強い結束力と維新期に培った人脈がありました。明治2年6月の版籍奉還により、家臣団の身分や所属が分裂することを恐れた稲田家家臣の主たるもの達は、明治政府にまで陳情運動を繰り返していきます。明治3年3月、明治政府は稲田家家臣たちをを北海道移住させ徳島藩と引き離そうという解決策を使者に持たせて徳島に向かわせますが、稲田家家臣たちは北海道移住を承知する代わりに稲田家の分藩独立を認めよと明治政府からの使者に迫ったのです。

 そうした稲田家の分藩独立運動に強い危機感を抱いた徳島藩兵隊は、4月はじめ、明治政府への陳情団12名を東京へ送ります。陳情はなんら成果を得られず、逆に明治政府から藩知事蜂須賀茂韶と稲田家当主稲田邦植が呼び出されることになり、陳情団のうち10名は東京に留め置かれ、2名は徳島へ茂韶と邦植を迎えに行くことになります。

 陳情団のうち血気盛んな大村純安ら若者8名は、茂韶が東京に移動するときを、事件が藩知事茂韶に累を及ぼさない最大の好機と捕らえ、監察者として同行していた新居水竹・小倉富三郎を説得して5月6日(5月7日という文献も数多いが、ここでは5月6日説を採ります。)東京を逃げ出し、陸路苦労して11日に徳島・淡路へと帰り着きます(これを「八士脱帰」といいます)。

 一方、東京で外交方として若者のリーダー格であった阿部興人は脱帰者を追って、5月8日、徳島の父が病気との理由で帰国願いを提出し、許可を受けて堂々と横浜から神戸行きの汽船に乗り込みます。阿部は12日夜に神戸から淡路経由で徳島へと入ります。淡路の情報を得ていたため13日の徳島藩兵隊の動きに大きな影響を与えたのです。

 蜂須賀茂韶・稲田邦植が明治政府の呼出しを聞き、徳島を出発したのは庚午事変(稲田騒動)が実際に起きた前日、12日の午後4時のことでした。徳島藩兵隊によって実際に洲本攻撃が行われたときには、阿部興人が乗って神戸まで帰ってきた汽船に乗り込んでおり船上にあったのです。茂韶らが、事件のことを知ったのは、徳島からの使者がようやく到達した5月20日になってからでした。

 このように、庚午事変(稲田騒動)という事件では、現代にはもはや存在しない交通手段による人や情報の動きによるタイムラグが大きな鍵を握ります。このアニメーションによってそうしたタイムラグを少しでも体験していただければ幸いです。



(なお、洲本において攻撃された地区については、
 Flashの洲本地図画面で右クリックし「拡大」を選べば詳しく参照できます。)


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